本文
『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。
とある。
[編集] 書や記事について
楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。
[編集] 撰者について
班固が後漢の初め頃に編纂した。
[編集] 『後漢書』
[編集] 本文
『後漢書』「東夷傳」
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していた。 授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。
中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」
会稽の海外に東鯷(てい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する
という。
会稽郡、今の蘇州・上海あたりの海の彼方に、東ていの人 がいて、二十余国に分かれて、倭人と同様に朝献していたという記事から、この”東ていの人”が中国から日本を指していると解釈すれば、前漢時代にすでに会稽と関係ある倭があったことになる。
[編集] 檀石槐伝
『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。
詳細は檀石槐を参照
「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」[1]
[編集] 書や記事について
『三国志』より古い時代を書いているが、成立は三国志より遅い。五世紀に書かれた。范曄は『漢書』は当然、『三国志』『魏略』なども読むことができたと思われる。また「倭の五王」の「上表文」も知っていた。
[編集] 撰者について
范曄(はんよう 398-445)の撰。後述の魏志より遥か2世紀近くも後に編纂されたことに注意。
『後漢書』東夷伝倭人伝
『後漢書』東夷傳
[編集] 『魏志』倭人伝
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本文
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」(『三国志』魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」)
この記事は、倭人伝の導入部である。その意味は、
倭人は帯方郡[2]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国
である。
書や記事について
東夷伝には、扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。
東夷伝の韓伝冒頭には、
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。
とある。 これも倭人伝を考えるに際しての貴重な情報であろう。
倭人伝について
倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなかったのにも関わらず、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書なのに、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。
『三国志』について
『三国志』は『魏書』三十巻、『呉書』二十巻、『蜀書』十五巻からなる。通称は『魏志』『呉志』『蜀志』である。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220?280)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代、60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。晋が天下を統一したころ、太康年間(280-289)に全六十五巻を陳寿が撰述した。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。
三国とその周辺について
華北に魏、華中・華南に呉、長江(揚子江)の上流四川を中心にして蜀がある。南北に対立した魏の範囲と呉の範囲は、のちの南北朝時代にもそれぞれ北朝と南朝として地域的対立する。
中国では中央に居住する華夏族(漢民族)に対して、その周辺に居住するものを、東は夷、南は蛮、西は戎(じゅう)、北は狄(てき)と称した。
撰者について
陳寿の撰。字は承祚(しょうそ)。巴西(はせい)郡安漢県(四川省南充)で健興(蜀の年号)十一(233)年に生まれ、65歳で没する。ほぼ卑弥呼(248頃死す)と同時代の人。
魏志倭人伝の原文と対話型和訳
『晋書』
本文
太康10年(289年)の条には、
「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」
とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。
書や記事について
日本については東夷伝と武帝紀に書かれている。
邪馬台国についての記述がある。
266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。
『晉書』四夷傳(東夷条)
『晉書』帝紀(抜粋)
『宋書』
本文
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。